English here 这边中文版 한국어 aetta memo Art-Letter/号外 体現集団φAETTA 修正
下記展覧会および行為終了しました。
6日間で約400名の方にお越しいただけました。
ありがとうございます。
写真後日アップします。
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今日5月25日(水)最終日、会場の名古屋芸大美術学部のギャラリーBEにて、12時15分から16時15分まで、鉄球とさらしの横のちゃぶ台の前に鎮座、おそらく巻紙に文字を書き続ける行為をしています。
展覧会自体は、今日は最終日なので17時までです。
16時20分ごろ、いったん認知症の母親を迎えに会場を離れますが、17時からの作品搬出作業のためふたたび会場に戻ります。
搬出作業終了後、18時から学内で名古屋芸大教員の九条の会の人たちとの交流会があるとのことです。
西島一洋
西島一洋が5月20日より開催の下記展覧会に出品しています。
鉄球と晒し木綿、ほかによるインスタレーションです。
タイトルは「非殺生」。アヒンサです。
ぜひ、お越しいただけるよう下記ご案内申し上げます。
◆展覧会名/『peace nine 2011』
◆会期/2011年5月20日(金)~25日(水)/12:15~18:00(最終日は17:00)
◆会場/名古屋芸術大学美術学部(西キャンパス)
ギャラリーBE(アート&デザインセンター1F)
〒481-8535 愛知県北名古屋市徳重西沼65
◆アクセス/http://www.nua.ac.jp/contact_us/access.html
電車:名鉄名古屋駅からの場合/犬山線犬山方面普通乗車-約17分-「徳重名古屋芸大駅」下車-駅前東西の通りを西へ(美術学部方面)へ徒歩約15分。(普通のみ停車。特急、急行は停車しません)
車:駐車場あり。名古屋江南線(名草線)徳重南交差点(ヤマトヤ家具)を西へ。

コンセプト↓
「鉄球」と「アヒンサ」について /西島一洋
僕は、まもなく60歳。
1952年生まれだ。戦後7年後に生まれた。
60年代。
僕が子供のころ、名古屋の吹上あたりはまだ瓦礫の様相が残っていて、戦争(空襲※)の痕跡があった。
(※名古屋の空襲は63回あり、そのうち、大規模なものは18回といわれ、死者は8630人と記録)
名古屋駅前に行くと軍隊服の傷痍軍人というのが、包帯を足や腕に巻きつけて、乞食のように金をせびっていた。
駅裏(今の新幹線太閤口)はバラック街だった。
なお、僕の父親は、戦中、東京物理学校(今の東京理科大学)に在学中、徴兵され陸軍中野学校に。
そして軍隊に。本人は無線(モールス信号)の仕事と言っていたがおそらく諜報員(スパイ)だろう。
70年代。
16歳のとき、僕は失恋をして、一生の仕事を画家になることに決めた。そして即日画家になった。社会的に認められたわけではない。自分で勝手に決めた。
命がけで絵を描くということを決めた。
18歳~22歳。苦悩も楽しかった。
フォークソングもやった。新宿西口のことはよく知らないが、名古屋栄では普通にフォーク集会というのがあって、僕らはプロテストソング(反戦歌)を歌っていた。
「死んだ男の残したものは」、「戦争を知らない子供たち」、「自衛隊に入ろう」、などいろいろ。市民運動という感じではなく、お互いに知らない人たちが予告もなく勝手に集まってやっていた。
80年代。
「鉄球」を拾った。
敦賀の原子力発電所内の浜で。原発のフェンス内、監視カメラの中、持ち出すことに成功した。
赤軍派の浅間山荘の事件を連想して、この「鉄球」を引きずり回そうという気持ちが少なからずあった。
その当時、廃物と人間の関係を探求していた「飯田美研」の考えに僕は強く影響を受けていた。
ジャンクアートという分野があるが、これは、人工廃物をアートという美術幻想の名の元にリサイクルするという発想である。
「飯田美研」はこのジャンクアートという分野を強く否定していた。「物力」…つまり人工廃物は人間のためにすべて抑圧されてきた「物」が、人間の抑圧から解放されたときに本来の自然物に戻り本来の「物力」がよみがえるという考え方だ。
せっかく、人間に捨てられて、人間からの抑圧から解放され自由になって本来の「物力」がよみがえった「鉄球」を、僕が拾って、さらに引きずり回すということなんか到底僕にはできなかった。
だから、数年間しばらく僕はこの「鉄球」と静かに対話することになった。
80年代後半。
アパルトヘイトに反対する国際美術展(北川フラム企画)の名古屋展の運営をやることになってしまった。
この美術展をそのまま受け入れるだけでなく、この地のアーティストたちにも出品を呼びかけ、合同でできないかと思い、そのようにした。
結果、100人くらいのアーティストが賛同し、「from our Hearts」で実現した。「from our Hearts」は名古屋だけでなく岐阜でもやった。
ここで、なぜ、アパルトヘイトに反対する国際美術展のことを出したかというと、「鉄球」。
僕は、自分の等身大の人形を作り包帯でぐるぐる巻きにして、仰向けにした擬似人体の上に「鉄球」を置いた。
「鉄球」に「アヒンサ」の力を感じたからだった。
僕は「鉄球」に「アヒンサ」という名を勝手につけ、以後引きずり回す。
それでよいと直感的に思った。物力と自我の同一。
90年代以降。
「アヒンサ」について。
「アヒンサ」は、静かな力である。
サンスクリット語(古代ヒンズー語)で意味は「非殺生」。
マハトマ・ガンジーの非暴力主義の元になるインドの古くからの理念である。
そうして、僕は今も「鉄球」との対話を続けている。
追記:
80年代、吉川三伸という画家を知った。ある展覧会で彼の作品を見たのがきっかけだった。大きな木製の塀の下のほうに小さな檻。檻の中にはつぶした空き缶。とても気になったので彼のところへ尋ねていった。彼は戦中の40年代、シュルレアリスムの作品を画き特高警察に逮捕され数ヶ月間拘禁された。拘禁中生死にかかわるほどのひどい仕打ちをされた。そのときの記憶が原体験となっての作品ということだった。僕は「当時の画家は絵の具の調達のために戦争画というものを画いた、また画かされたのではなかったのですか?」と批判的に聞くと、もちろん彼は戦争画を画いてはいないが、彼は「戦争画を能動的に画いた藤田嗣治等の戦争画家たちさえも批判することはできない。それよりも、戦争というのがいけない。戦争というのは人間の想像力をはるかに超えている完全に狂った状態だ。戦争になれば人間はもうどうすることもできない。戦争はいかなる理由があるとも絶対に起こしてはならない。」…彼の苦悩を経過した重い言葉だった。