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西島一洋が書(パンク歌舞伎マクベスとリア王の題字のための習作)を数百点出品。アクテノン「原智彦現場の力」展。2011年11月4日~12月25日。

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「原智彦氏について」西島一洋
40年近くも前のことから書き始める。したがって、僕の記憶違いもあるかもしれないことを最初に断っておく。それから、下記文中の敬称を省く。
僕の記憶では、原智彦と最初に出会ったのは、僕が22~23歳の頃だったと思う。原智彦は確か僕より5歳違いくらいの年上だから、そのとき原智彦も20代だったのだろう。
出会った場所は、名古屋の大須の岩田信市の自宅の二階だった。
僕は20歳のころ、『ぴしっぷる』という文化情報誌(ミニコミ誌)を作っていて、名古屋市長選にレインボー党というのを掲げて立候補した岩田信市が面白そうだということで、岩田信市の自宅に押しかけインタビュー取材をして記事にした。
その後、岩田信市の自宅の二階には何度か行った。というのは、この二階には、ほぼ連日のように、夜半から夜明けまでかけて、芸術論というか、文化論というか、文明論というか、諸々の事を論じ合う種々雑多な人々が、それぞれ勝手に集まってきていたからだった。そういう場だった。僕も事前連絡もせずに、いつもふらっと訪れていた。
僕は、その当時すでに絵描きだったが、絵描きで食えるわけでもなく、大須の花市場に勤めていた。花市場の仕事は朝早い。午前5時から。だが仕事は昼までに終わり、昼から絵を描くというのがその頃の僕の日常だった。夜半にこの二階に訪れて、夜明けとともに花市場へ直行というのもしばしばあることだった。
その岩田信市の自宅の二階で原智彦と出会った。
ある時、僕が花市場で働いていることを話すと、原智彦は「今度、名古屋の長者町にある現代美術のギャラリー『8号室』で個展をやるんだが、作品に花を使いたい、西島君、何か見繕ってくれないか」と僕に依頼した。数日後、僕は葬式花のときに良く使うストレッチャー(極楽鳥花)の花束を、当時今池にあった彼の工房(彼は手作りアクセサリーの路上販売を行なうヒッピー達の胴元のようなことをやっていた)に届けに行った。
花束を届けに彼の工房に入ると、彼は留守だったが、工房で働いている若者が数人出てきた。彼らは僕の持ってきた花束を受け取った。後日、原智彦に会ったとき、工房の若者達に「美少年が、原さんに花束を届けにきましたが、同性愛者の方ですか?」と聞かれたそうだ。確かにその頃の僕は22歳にしては若く見えたし、自分で言うのもなんだが美しかったと思う。
『8号室』の原智彦の個展。それまでにいろいろやってきた僕にとっても彼の個展は強烈だった。作品というよりも、作品搬入の儀式が強烈だったのだ。
原智彦の作品搬入の儀式は、彼と加えてほか二人。つまり三人でこの儀式を行なった。このギャラリーは、当時つまり1970年代の現代美術界において最新鋭で主流だったコンセプチュアルアートの発信基地的性質を持つ場であった。簡単に言うと、クールなインテリ連中が集う場所だった。彼は、この場に「なま」な肉体を持ち込んだ。
三人は男。全裸。下腹部の一物に2mほどの紐を結わえ、紐の先にはマネキンの頭。ゆっくりマネキンの頭を引きずりながら登場。三人は動き回る。マネキンの頭と紐は絡む。そうして、放射状になって引っ張り合う。三人の一物はビヨーンと伸びる。かなり痛いはずだ。そのまま三人は逆立ち。つまり三人の一物はさらに引っ張られる…というかお互いに引っ張っりあっている。その一連の行為のあと、ドリルでマネキンの頭に穴を開ける。その穴に、僕が先日届けたストレッチャー(極楽鳥花)を活ける。記憶は曖昧だが、僕の記憶ではこうなっている。
この頃、つまり40年近く前の岩田信市の自宅の二階、原智彦は岩田信市に対して口癖のように、「岩田さん何か面白いことしましょうよ。」と言っていた。で、この面白いことというのが、後に30年間にもわたって一世を風靡した「ロック歌舞伎スーパー一座」の旗揚げとして結実する。
さて、時間は飛ぶが、最近のことも少々書いておこう…と思ったが、またの機会に。原稿依頼がA4一枚ということでもあるし、最近の原智彦のことは、「パンク歌舞伎」を見れば分かるだろう。
原智彦は僕のことを尊敬していると言う。そして僕は、原智彦のことを尊敬している。
西島一洋記/2011年10月31日